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EP 2-0

こぽり、こぽり。

音が聞こえる。
水の音が聞こえる。
どこか心地良いその泡の音に、長身の彼はぱちりと瞼を持ち上げる。
エメラルドグリーンの瞳が最初に映したのは一面に広がる海。彼が立ち尽くしている場所は足元にまで水に浸かるくらいの深さで、少なくとも溺れそうな様子はない。
辺りを見渡せば同じように浅瀬、あるいは底が予測出来ないくらいに青黒い場所があるのが見て取れた。随分昔に建築物が存在していたのか、海藻に包まれ瓦礫と化し古びた建物が数多くあり、ざあざあと流れる滝に打たれ続けている。まるで水没していた場所が陸中心の洞窟へと環境変化したような景色。

こぽり、こぽり。
見上げるとどこまでも続いている真っ青な海は、ゆらゆらと鏡のように向い合せの姿を映し出し、僅かに太陽ような光が差し込んで来ている。
次々と浮き上がっていく泡を追うようにして気持ち良さげに優々と泳いでいく色とりどりの魚達は数知れず。海底に囲まれた状態の中ガラス越しに眺めているような立ち位置で、尚且つ空間があり息が出来るこの状況は確かに幻想的な光景だった。

『此処は…?』

試しに声を出してみれば、奥行きのある自身の声が此処海底遺跡へ溶け込こむ。見覚えはない場所だが美しいと言える光景に一時見惚れていた彼スウロは、一通り観賞した後改めて考え直す。

(ええと…確かぼく、眠っていました…ですよね?)

かの暴走龍ハドレッドの最後を見届け問題が解消されてから数日間。スウロは相変わらず新人アークスとして活動を続けていた。
彼ハドレッド等研究施設で明らかになった情報は厳重に管理され、必要以上に開示する事は無かったはずだが、何故かその日以降格段にスウロへの評価が上昇し探索任務を頼まれる数が増えた気がする。あれから立場上クーナとやり取りを交わす機会は減ったものの、彼女から密かに情報交換を続けてくれている。内容はスウロが探している少女ラビナ、研究者ロルフッテの件だが、未だに居場所を掴めてはいない。
そうして時間が過ぎ、着々とこの世界での実力がつき始めた頃。いつものように任務を終えたスウロは普段よりも早めに自分の部屋で眠りにつき、今に至る。

という事は、此処はもしかすると夢の中だろうか、とスウロは首を傾げる。どちらにせよこんなにもロマンティックな光景を見られたのは素敵な事だと、この場所の事情をまだ知らない彼は喜ぶ。
せっかくなので夢から覚めるまでの間たっぷりと満喫する事にしよう。そう考えた瞬間だった。




―――――――♪――――、




ば、とスウロは思考を中断し顔を上げる。
ふいに聞こえた声。その鈴のような唄声には聞き覚えがあった。この世界に来る前に、そしてこの世界に来た後も時々どこからともなく聞こえていたあの悲しげな声。

(この声、間違いないのです!いつも聞こえていたあの唄なのです)

スウロは思わず耳を澄まし、居場所を探る。唄はとてもか細く特定が難しい状態ではあったが、彼は慎重に耳を傾け声がする方へと歩み始めた。
足を動かす度に波の音が唄と共に奏でる。青い海や様々な魚達に見守れながら薄暗い海底遺跡の奥へ進めば、小さかった声が徐々に聞き取れるようになっていく。
やがて、奥に大きな跡地が見えてくる。

(あ、)

潜り抜けるとそこには広々とした遺跡が姿を現し、とある人物を中心に覆って建っていた。点々と光り輝く球が天井に散らばり、成長しきった蔦が建物や陸に絡みつき、天井に見える海はこちらの景色をそのまま反対の姿で映し出されている。そこからぱらぱらと雨のように小さな雫が降り、スウロの柔らかな髪に落ちる。
スウロはその水滴を拭う動作もせずに唄声の人物を見つめていた。
水しぶきの音。泡の音。波の音。滝の音。陸の音。魚達の呼吸の音。水草やサンゴにのった水滴が落ちる音。
この場所に存在する全ての音が、中心に立っている小さな少年の唄声と合わさり、満ち溢れ、辺り一面に響き渡っている。

息を吞む美しさだ。言葉や時間を忘れてしまうほどに。
スウロはいつもよりやや興奮気味でいる事に気付き、軽く深呼吸をして心を落ち着かせた。そして歌い続ける彼の唄を中断させてしまう事を心の中で謝罪しながら、控えめに声を掛ける。

『この唄声は、あなただったのですね』

ぴたりと唄が止まる。
唄が止まった途端に共鳴して聞こえていた音達はバラバラに散り、スウロの知っている自然音へと戻った。肩を揺らし振り向いた少年は非常に驚いた様子でスウロを見つめる。
ルビーのように真っ赤な瞳は右側でしか確認出来ず、左には大きな白い花が咲いている。猫のような獣耳はやや伏せ気味で、赤紫の髪と共に水滴がおちていく。少年の周りには、頭上に見える魚達とはまた違った青い熱帯魚が、まるで少年を守るようにして囲って泳いでいる。
想像以上に若く、小柄な少年。スウロはこれ以上相手を驚かせないよう体勢を低くしながらお辞儀して見せ、挨拶をした。

『初めまして、ぼくはスウロ。あなたをずっと探していましたのです』

にこりと微笑むスウロに少年は戸惑いの表情を見せる。その場から動かず、不安から来ているのか身を守るようにして両手を胸元に当て、青み掛かった暗めの浴衣の袖を弱々しく握りしめた。その拍子に後ろで結ばれた大きな和柄のリボンがりんと揺れる。
スウロも相手の出方を見て、今立っている場所からなるべく動かずゆっくり返答を待った。

‟ ―――さがし、てた……? 〟

しばらく沈黙が続いたのち、ようやく今にも消え入りそうな声で少年は喋った。透き通った鈴のような声だが、身も心もかなり怯えているのが分かった。スウロは頷き、少しでも安心して貰う為に今までの経歴を話し始める。この世界に飛ばされる前の話や、アークスとして活動しながら人を探している事を、スウロは一つ一つ思い出していきながら丁寧に語る。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふと、話していく内に少年の顔色が徐々に悪くなっていくのが見てとれた。

〝 ごめん、なさい  〟

『え?』

やがてあの悲しげな表情で一歩スウロから後退る。その様子に気付いたスウロは話を中断し、驚いて少年を見返す。スウロは経歴を話すことで彼の恐怖を取り除くことが出来ればと容易に考えていたが、少年はとある内容に反応を示し、謝罪した。
それはスウロが少年を探していた理由についてである。

〝 おれ、が……あなたを、ここに…つれてきて、しまった、の 〟

消息不明の研究者ロルフッテを探す為、魔女ラビナと共に旅をしていたスウロ。彼がこの世界に飛ばされる前、商店街で吸血鬼の血で出来た宝石を購入していた。その宝石から聞こえた唄声を聞いた瞬間、突如視界が真っ暗になり、次に目を覚ました時にはオラクル船団内の新人アークスとして立ち尽くす事になる。もしかしたらこの世界は自身が知っている宇宙へと飛ばされただけなのではないだろうか。その考えは後日出会ったシオンからの話により、可能性は閉ざされた。惑星関連については黒魔術熟練の為それなりに記憶していたスウロは、全く覚えのない知識の数々により確信をもったのだった。
この世界に飛ばされた原因。話の流れから推測すると、少年による唄声がキーワードのように思えたスウロは、クーナとの協力も得ながら探していた。

ようやく出会えた唄声の持ち主。少年は恐怖心を取り除くどころかさらに怯え切っている。慌てたスウロは思わず少年へ手を伸ばすが、彼は肩をすくめさらに一歩離れる。

〝 わからな、い 〟

〝 おぼえて…な、い 〟

弱々しく首を横に振り、身を縮み込ませ俯く少年の声は震えていた。
自身が一体何者なのか。何故此処にいるのか。この世界で今何が起こっているのか。ほとんどの問いかけに答えることが出来ないほどに少年は困惑し、頭を下げ続ける。何度も謝罪を口にする少年の姿を見て、スウロもまた驚愕していた。なぜなら少年の唄声を聞いた時以上に今、とある想いが湧き上がっているからだ。スウロにとってその感情は、初めて経験するものだった。

この子には、記憶が無い。
記憶喪失であることから真実を知らない自身に嫌悪感を抱き、どうすることも出来なかった事態にひたすら、罪悪感を抱いて。
一体どれだけの時間を此処で過ごしてきたのだろう。どんな想いで此処にいたのだろう。唄を歌っていたのだろう。

自分は「微笑みの感情」から出来た心の宝石から誕生した身。誰かの笑顔を最も大切にしていきたいと想う気持ちは、この世界に訪れてからも変わってはいない。
スウロは瞼を伏せ、再度ゆっくりと深呼吸をする。すう、と入ってきた空気は程よい冷たさで、冷静に考えるには丁度良い刺激となった。
そしてぐるりと真上に漂う海を見渡し、最後に少年へと向き直す。未だに自身へ刃を向け続けている少年に、スウロは優しく声を掛ける。

『…此処は確かに目を奪われるほど美しい場所ですが…一人でいるのは、きっと広いと思うのです』

〝 ごめんなさい 〟

『あの唄を歌っていた理由が、今ようやく分かりましたのです。唄は、きっとあなたにとって唯一残っていた記憶なのですね』

〝 ごめんなさい 〟

『こんな海の奥底で、自分が何者なのか分からないまま…ずっと一人で、怖かったでしょう。苦しかったでしょう』

〝 ごめん、
なさい 〟

『とても、寂しかったでしょう』

〝 ――――、 〟

一歩、一歩と後退っていた少年の足が、謝罪の言葉と共に止まる。
少年は俯いていた顔を上げ、ゆらゆらと揺れたその瞳でスウロを見つめ返す。シオンと似た遠くを眺める目。

『この世界に導かれた事も、あなたとの出会いも、偶然ではないのです。』

〝 ちがう……おれが、あなた…を、まきこん、だ 〟

『此処に来てからぼくは沢山新たな知識や感情を得る事が出来たのです。きっとこれからも』

今度はスウロが一歩、一歩少年へと近付き、話を続ける。迷いの無い言動に少年は震える手を抑え、必死に言葉を考えている様子だった。しかしスウロへの返答が見つからず、足は硬直し動けないでいる。

『是非、あなたのお名前をお聞きしたいのです』

スウロは再び手を伸ばし、少年が手を伸ばしてくれるのを待つ。
少年はくしゃりと表情を変え、口を開こうとして閉ざすのを何度か繰り返す。二人に長い沈黙が降り、光の差し加減により二つの影が伸び水面に映りこむ。からり、からりと水の音が目立ち始め、熱帯魚がぷくりと小さな泡を放出する。
スウロは待ち続けた。苦しげな様子を静かに見つめ返し、微笑む。





〝 シャ、フ 〟



やがて、少年はそう答えた。
スウロの眼差しに惹かれ、ゆっくりと閉ざしていた口を開き、小さな声で静かに、ちりんと風鈴のように。
記憶喪失の身でありながら、自然と名が浮き上がり口にすることが出来た時点で、ほんの僅かに希望が見えた。そうしてシャフという少年はスウロを見つめ返し、まだ抜けきれていない戸惑いの表情をそのままに、ゆっくりと手を伸ばす。

『良かった、お名前の記憶が戻ったのですね。とても素敵なお名前なのです!』

〝 ! 〟

名を聞くことが出来たスウロは、エメラルドグリーンの瞳をさらに輝かせながら嬉しそうに笑い、歓迎の言葉を送る。そして勇気を振り絞り伸ばしてくれた手を引き、ぎゅっと抱き締めた。二人の身長差は歴然としていて、シャフは抵抗する間もなく身体が浮く。彼らの周りに熱帯魚が舞い、海藻がゆらゆらと揺れる。

『シャフさん、ぼくはあなたに出会えてとても嬉しいのです』

抱きしめられた温もりに、その言葉に、シャフは目を見開く。
一面に散らばり泳ぐ魚達が光り輝き上へ、上へと舞い上がる。
やがて隠れて自身さえも理解出来ないでいた感情が、記憶が膨大な量で溢れていく。


思い出していく。シャフの唄は「希望の奇跡」と、「絶望の奇跡」を引き起こす力があることを。
思い出していく。「この世界にいるシャフ」は、その「絶望の奇跡」から生み出された自身であることを。
思い出していく。自身はシャフの唄から出来たシャフの絶望の姿であって、シャフそのものではないことを。
思い出していく。「絶望の奇跡」から誕生した自身の唄は「絶望」でしか奇跡を起こせないことを。

思い出していく。 人も、人でないものも、太陽も、月も、全てが恐怖の対象でも。 何より己の存在が化物であっても。それでも唄を紡いだのは。絶望の唄を歌い続けていたのは。



『一緒に外の世界に行きましょう?あなたが感じていた心は、決して間違いではないのですから』



絶望の唄により導かれたスウロは微笑み、シャフの頭を撫でる。目の前で悲しんでいる絶望に恐れることなく、決して忘れぬように。まるで家族のように優しく接するスウロの言動に耐えきれなくなり、シャフは頭上に見える海を眺めながら、ぽろぽろと涙を零した。

ふと、段々周りの景色が薄くなっていくのが分かる。
後数分もすれば、夜が明け夢から覚めるだろう。どうかこの少年と共に夢から目覚める事が出来ますように。そうスウロは、海に映る遺跡の向こう側にあるだろう青空へ祈りを捧げた。

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