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 03 


「…ここ、は…」

白い視界。
眺めるのはこれで何度目だろうか。

 

天井を見上げている状態だと気付いたのは自分の瞳が部屋の灯りに慣れてきた頃だった。以前連れて来られた屋敷の部屋とは比較的馴染みのあるシングルベッドから降りようと裸足で床に乗れば、きしりとかすかに軋む音がした。

 

村は。今後村の人達はどうなるのだろう。
ふと降りる動作を止め考える先は故郷である村の事。必死な思いで屋敷から脱走したファフには吸血鬼の生存を判断する事は出来なかった。あれほど炎を浴びていてはいくら都市伝説の一つとして匹敵する彼でも無傷では済まないだろう。
怒り狂った衝動で村を一掃する姿が目に浮かびぶるりとファフは身震いする。生死を掛けた行動とはいえ取り返しのつかない事をしてしまったのではないか、と。

 

罪悪感と共に村人達が残した言葉を思い出しファフはベッドからしばらく動けず座り込み考え込む。
私を捨てた村。元々生贄の身だったのだから拒絶される事は分かっていた。今思えば村人達とあまり馴染めないでいた家族も同じように生贄に選ばれていたのかもしれない。

 

でも。
それでも。

 

「……っ」

 

苦しい。
村中があの目でファフを拒絶した事や恐ろしさに胸が締め付けられる。夢だと現実逃避したい思いだが、三日月の装飾品が特徴的なベレー帽を身に付けた軍人に抱えられた温もりが忘れられずさらに精神的に追い込まれる。こんな思いをするくらいなら死を恐れず吸血鬼と共に火の中へ身を投げれば良かった。己の死に対する弱さを恨む。

 

「…ここから出なきゃ…、」

 

ファフにとってこれ以上自身が原因で状況が悪化するのは耐え切れなかった。助けて貰った恩を仇で返す様で申し訳ない思いだが、ファフは軍人達に気付かれないよう部屋の扉以外に抜け出せる場所を辺りを見渡しながら探し始める。
するとベッドのすぐ隣にあるファフの腰程度の高さの棚の上からキラリと光が見えた。
覗き込むとそこには彼女が身に付けていた赤い十字架のネックレスが置かれていて、ようやく首元のアクセサリーが無くなっていた事に気付く。

 

今では家族から貰った唯一の遺族品になるだろうか。ファフがまだ誕生していない頃、村に有名な科学者が訪れた時に魔除けとして貰ったのだという。
その十字架に吸血鬼を燃やすほどの魔力が備えてあったと一体誰が予測出来ただろうか。ひしひしと十字架の底知れない威力を感じながらファフは慎重に十字架を手に取り…

パ リ ン ッ

「――――っ!?」

 

突然の強風に耐え切れなかった窓ガラスがいとも簡単に砕け散る。
驚いて風通しの良くなった窓へと目を向けるが見えるのは青空のみ。他に変化は見当たらない。

 

 


―――――――いや、違う。

 

 


どくどくと血の流れが早くなっていくのが分かる。時が止まった空間で窓の外から目を外せないでいる。
緊張が解けない。胸騒ぎが取れない。振り返ることが出来ない。
この感覚には、覚えがあった。

 

キラキラとスローモーションで落ちていくガラスの破片達は床へと溢れる。
キラキラと。
パラパラと。
静まり返った部屋の温度は低い。ステンドグラスの様な輝きは幻覚か、本物か。

 

キラキラ。
パラパラ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ーーーーしん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『おい』 

 

 

 

 


「………!!」

がたんと背後から聞き覚えのある声に思考と動作が追いつかず足が縺れ視界が揺らぐ。
振り返った先にはあの夜色のコートがゆらゆらと舞っているのが見え、ファフは言葉を失った。
雪の様な肌。ルビー色の瞳。赤紫の前下がりショートヘア。
間違いない。炎の渦へと巻き込まれていったはずの吸血鬼が今しっかりとファフの姿を捉えている。

 

ファフは何故か彼が生きていた事に一瞬安堵し、そして視線を感じながらぎゅっと瞳を瞑った。
ああ。今度こそ殺される、と。

 

『…何やってんだ。だらしねえ』
「あ…」

 

しかしいつまで経っても痛みが無く、床への感触も分からないまま頭上から放たれたのは彼の呆れた声だった。
恐る恐る顔を上げると吸血鬼はじっと静かにこちらを見ている。その顔は僅かに不機嫌そうだ。
彼は倒れそうになった彼女を宙に浮かせ元にいたベッドへと座らせたところでようやくかざしていた手を下ろす。

 

『で?何処なんだ此処は』
「…」
『……おい。聞いてんのか』
「!は、はい…っ」

 

突然の事でファフは何を言われたのか、何をされたのか理解するまで時間が掛かり彼の問いに遅れて返事をする。
助けた?何故?

 

「どうかしましたか!?」
「『!』」

 

しばし沈黙が流れ見つめ合う形となっていた二人の間に勢い良く部屋の扉が開かれる。
そこには村を離れる際ファフを抱きかかえ連れて帰った軍人の一人、カムチャッカが息を切らせた状態で立っていた。窓ガラスが割れる音を聞きつけ階段から駆け上がってきたのだろう。床へと散乱している破片とベッドに座り込み怯えているファフを見て彼は疑問を浮かべる。

 

「これは一体…何があったんです?」
「…」
「あ…こ、怖がらないで?少なくともキミの敵ではありません」

 

吸血鬼の存在に未だ動揺を隠しきれないでいるファフの様子をカムチャッカには怯えているように見えたのか武器も何も持たない両手を左右に振りながら敵ではない事を証明しようとする。

 

「僕はカムチャッカ。無断で申し訳無いですが傷を負ったキミを放っておけなくて此処まで運ばせて頂きました」
「…カムチャッカ…?」
「はい!カムで良いですよ。…あの、それで貴方のお名前は…?」
「……ファフ…」
「ファフちゃんですね!どこか痛むところはあります?」

 

怖がらせない様柔らかい口調で話し掛けるカムチャッカは未だ心配そうに顔を覗き込んでいる。ファフは僅かではあるが彼らに救出された事を覚えている為対応に戸惑いつつもこくりと小さく頷く。するとカムチャッカはほっと胸を撫で下ろしながら良かったと微笑んだ。
立派な武装の格好をした軍人。彼の優しい雰囲気は軍隊に加入した理由を知りたくなる立ち振る舞いだ。
ファフは口ごもりながらも小さくお礼を言うと再度ベットから立ち上がる。

 

「此処は…」
「此処は僕等軍隊の一つ、武装集団ぷちりょーしゅかの本拠地です。ええと、ハリーさんは誤魔化す為に何でも屋さんとお話してたと思いますけど…」
『………』
「?」

 

格好でバレバレですよね、と軍の一員であるカムチャッカは苦笑いを浮かべる。二人が会話している途中黙って様子を伺っていた吸血鬼が突然カムチャッカの元へ静かに歩み寄りファフは思わずあ、と声が漏れる。目の前まで来ると彼はひゅ、と細長い人差し指をカムチャッカへ向けた。
次の瞬間。

 

がたーーーーん

 

「わーーーーっ!?」
「カム…!?」

 

ビュウッと何処からともなく強風が部屋の中で吹き荒れ、カムチャッカはベレー帽が吹き飛ぶと同時に間抜けな声を上げながら扉の向こうに繋がっている廊下へと転がった。低身長のファフからでは彼の姿が見えなくなり思わぬ事態に悲鳴を上げると、風魔法を使用した当の本人は涼しげな顔で呟く。

 

『こいつ、俺の姿が”視えない”らしいな』
「え…」
『まさか「視える」のはてめえだけか?どういう事か説明しろ』

 

一瞬攻撃を仕掛けた様に見えたが実際尻もちをついたくらいで彼は無傷のようだ。カムチャッカの傍へ駆け寄り支障がない事を確認し安堵した矢先突き付けられた発言に固まる。
確かに彼ほどの実力者であれば吸血鬼の咄嗟の動きにも対処出来たはずだ。考えてみればカムチャッカは吸血鬼が目の前にまで近付いたにも関わらず問いかける事も、視線を合わせる事も無かった。

 

「視えている」のはボクだけ。いや、そもそも先程から吸血鬼の言動がおかしい。
生贄の立場だけでなく燃え盛る彼とお屋敷から逃げ出したファフに対し何故そんなにも冷静でいられるのか。それどころか転ぼうとしたところを助けられた。今目の前にいる彼は噂が絶えなかった虐殺非道の吸血鬼ではなく、彼女が初めて出会った時に感じた少年の姿だ。
嫌な予感が頭を過り、冷や汗をかき始める。

 

「………ボクの事…覚えてない…?」
『知らん。てめえどころか俺が何者なのかさえ思い出せない』
「え……」
『どうやらてめえの体からも離れられないようだが。術か何か仕掛けたんじゃないだろうな』
「し、知らない…ボクが知ってるのは、貴方が、吸血鬼だという話を聞いたくらい…で、」
『…吸血鬼?』
「!ひっ……」

 

吸血鬼という言葉にルビーの瞳を細め静かに見やる様子にファフはひきつった声を上げ口元を両手で隠す。殺気は感じないが彼に見つめられてはあの時の出来事がフラッシュバックし、最悪の結末までを想像してしまうのだ。ドクドクと心臓の音が高鳴る。
震える声を抑え黙り込むファフを冷めた目で見ていたが、やがて彼は視線を外し小さく舌打ちをした。

 

『………チッ。どうやら嘘は付いてないようだな、胸糞悪い』
「あ、あの〜〜…ファフちゃん?何やら先程からお話されているようですが…」
『あ?……こいつ視えねえんだったか。クソ、何で俺の肉体がねえ上にこんな女の体に乗り移ってんだ』

 

軽く背中をさすりながら帽子を手に取り廊下から戻って来たカムチャッカの問いに彼が代わりに答えるもやはり聞こえていない様だった。不服げでありながら以前見てきた姿とは別人のような振る舞いにファフは一つの可能性を考え始める。

 

記憶が、無い。

そう。吸血鬼や生贄という言葉に無関心である彼の態度から考えられるのは記憶喪失の可能性。そして原因は不明だが何故かファフの体に彼が憑依しているという事態。予想外の展開に経験の何もかもが乏しい幼き少女が考えるには限界があった。
限界の中、彼女にとって恐ろしい未来を考えていた。仮に記憶喪失であるとしてもしも記憶を取り戻せばまたあの吸血鬼に戻るのだとしたら。元々生贄だったファフだけでなく救出してくれた此処の人達にまで影響を及ぼす事は間違いない。彼女には無事を保証する未来が見えないでいたのだ。

 

「…もしかして誰か居るんですか?」

 

困惑した表情で二人を交互に見ながら答えが出せないでいるとただ事ではないと顔色で察したのかカムチャッカが質問の内容をかみ砕き再度問う。そこでようやくファフは口を開いた。

 

「…吸、血鬼が…いるの…」
「吸血鬼ですか…」

 

吸血鬼というワードにカムチャッカはしばし考える素振りを見せ、やがて真剣な眼差しでファフへと手を伸ばしこう答えた。

 

「ファフちゃん、動けそうでしたら僕の仲間が下の階で待機しているので少しご一緒しません?」
「…え…」
「皆さんファフちゃんの事とても心配していましたし、ね?」
「………でも…」

 

彼の提案に答えるべきか迷い俯いてしまったファフにカムチャッカは伸ばしていた手を今度は頭の上に乗せ大丈夫ですよと優しく撫で安心させようとする。開いた窓から差し込む日差しと緩やかな風がファフの背中を押す。カムチャッカの手の体温に触れほんの僅かに緊張が解けたファフは、微笑む彼へ小さく謝罪しながら手に持っていた赤い十字架をぎゅっと握りしめる。
キラキラと太陽の光を浴びて七色に輝く砕け散ったガラス達の前で吸血鬼は静かに二人を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

+ + + + + 

 

あれからファフは身だしなみを整える時間を貰った後扉の前で待機していたカムチャッカと共に一階リビングへと向かった。
個室では馴染みある雰囲気で然程高級感を感じなかったが、部屋を出れば煌びやかな装飾が目に映る他風通しの良い窓が続き広々とした踊り場をほのかに光り輝かせる。落ち着かない空間に辺りを見渡しながらもカムチャッカの背中を追い無数の扉がある中を潜り抜けた所でふと、白いカウンターの前で何名かチェアに座り込みアフタヌーンティーを楽しんでいる姿が見えた。

 

「もう、皆さんファフちゃんを差し置いてくつろいでましたね?」
「あ。カムお帰り~遅かったじゃん。もう先に頂いちゃってるよ」
「見ればわかります!酷い!」

 

どうやらファフの為にとっておいたアフタヌーンティーだったらしく、彼らの様子にカムチャッカは頬を膨らませる。配慮に欠けていたと感じたのか真面目なハリーだけ気難しそうな表情で咳ばらいをする。

 

「後ろにいるのがファフちゃん?僕はアルトレーデ、宜しくねえ」

 

カムチャッカの困り顔にもお構いなく桃色のマカロンを味わいながらこちらへ手を振り呑気に笑うのは鮮やかな青空を連想させるセミロングの優男。アルトレーデと名乗った青年は食べかけのマカロンを食べ終えるとカムチャッカの後ろで控えていたファフへおいでと声を掛ける。
ファフは一度カムチャッカへ視線を向け彼の頷きを見た後におずおずとした態度でアルトレーデが誘導したアンティークチェアの先へと歩み寄り、ゆっくりと足を揃え座る。

 

「レオンハルト・アーヴィングだ。ハリーで良い。軍の隊長を務めている」
「エコー・レヴァメンテ。ま、宜しく」
「…宜しくお願いします……」

 

ファフの前の席にどっしりと座っているのはガタイの良い男レオンハルト・アーヴィング。通称ハリー。
一見硬い雰囲気を持つが彼女を見つめる銀色の瞳には情熱があり、いかに真面目な性格なのかが分かる。何より他の部員とは一つ独立したオーラが目立ち、その堂々としたカリスマ性はリーダーを務めるのにふさわしい姿である。
続いてハリー達とは少し離れたテーブルで優雅にエスプレッソの香りを楽しむ眼帯男はエコー・レヴァメンテ。切れ目の瞳はファフを見る事は無く軽い挨拶のみで済まし、テーブルの上に積まれた書類へ手を伸ばしている。

 

村に訪れたのはアルトレーデ以外の三人であり、あろうことか隊長自ら村に対し一喝を入れた事を知ったファフは目を丸くし萎縮する。どうやらとんでもない有力な人達に助けられたようだ。

「ファフちゃん、大分落ち着きました?」
「………あの…すみませんでした…」
「え?」

 

カムチャッカがファフの隣の席へ腰掛けたところで呟かれた言葉に一同は彼女へと注目する。ファフは向かいに座るアルトレーデに淹れてもらった紅茶の香りをよそに俯いたまま続けた。

 

「助けてくれてありがとうございました。でも…ボク、皆さんに迷惑かけてしまいました」
「迷惑だなんて、」
「すぐに出て行きますから…」

 

心配したカムチャッカの言葉を遮り話す彼女の表情は見えない。だが手元を見れば小さな指先に力を入れ握りこぶしを作っているのが分かり、カムチャッカは途中で掛ける言葉を失ってしまう。

 

「―――いや、しばらく此処に居て良い。俺達ぷちりょーしゅかが引き取ったのだからな」

 

複雑な心境でいる彼女に唯一落ち着いた声の調子で引き止めたのはハリーだった。予想外の返答に顔を上げ困惑の表情を浮かべるファフに彼は笑みを浮かべごつごつとした大きな手で彼女の頭をぽんと撫でる。
カムチャッカとは違った不器用であれど情を感じるその体温はファフの緊張を一つ一つほどいていく。

 

「軍に入るかはお前が決めろ。だが此処の生活には慣れてもらうからな」
「で、でも」

「言葉に甘えるべきだよ〜ファフちゃん。行く当ても無い女の子を追い出すなんて事性に合わないモンね」

 

ああ、またしても覚悟を揺るがされた。
此処で新しい人生を歩む事を許された。
ボクはきっとまだこの世界に無知過ぎるのだろう。幾度となく積み重ねてきた経験者達の言葉には敵わない。

 

ファフは己の覚悟の若さに唇をきゅ、と紡ぎ受け入れられた事への安堵に涙腺が緩む。痩せ細った肩を震わせる彼女の様子をハリー達はしばらく黙って見守る。
優しい眼差しを受ける中やがてファフは自ら顔を上げハリーを見つめた。その瞳には救出した時の色褪せた様子は無く、「生きる」事を選択した美しいルビー色の瞳。
少女の新たな覚悟にハリーは満足げに頷くと頭に乗せていた手を退かせ、真っ直ぐに見つめ返した。

 

「ファフ。お前はあの村の住民で間違いないな?」
「……はい」
「村の奴らはお前の事を生贄と呼んでいた。吸血鬼に会ったのか?」
「仮に出会ったとしてどうやって戻って来れたのかも気になるよね〜」

 

村に戻って来た時にはズタボロの状態だったみたいだし、と付け加えて話すアルトレーデ。吸血鬼や生贄の内容に宙に浮いた状態で観察していた彼がはじめてピクリと反応する。先程同様の話題には無関心だったが、彼にとって記憶を刺激する為の重要な話である事を把握した上で聞くとなると別件のようだ。
ファフはこの背後にいる存在の説明に言葉が詰まった。果たしてあの日の出来事を彼の前で話して良いものなのだろうかと。
小さなやり取りを交わすハリー達の目を盗み彼へ視線を向けると、彼もまたファフの眼差しに気付き静かに見下ろす。何を考えているのか明確には分かりかねるがファフにはほんの僅かに機嫌が悪いように見えた。
己の記憶がほとんど無い可能性が高いのだ。ぷちりょーしゅかの話す内容に納得がいかないのは無理もないだろう。慎重な判断が必要である今無暗に彼を刺激する事は危険だ。

 

恩人のぷちりょーしゅかの人達には悪いが真実を話すのは止めようとファフが彼から視線を外し、誤魔化す為の口実を作ろうとしたその時。

『おい』
「え…?」
『代われ』
「……っ、?」


 

『  ……≪ 代われ ≫  』

中性的で凛と透き通った声の彼に呼び止められたと同時に襲う眩暈。ぐるんと視界が回る。
よろめいたのは一瞬で次に瞬きをした頃には眩暈は治まり元の視界を取り戻した。何が起こったのか戸惑っていると辺りから息を呑む様子やガチャンと陶器の音が聞こえはっ、と顔を上げる。そこには先程まで不思議そうに見つめていたハリー達の表情が驚きへと一変してチェアから立ち上がっている。淹れた紅茶はすっかりぬるくなり、テーブルが揺れた拍子に小さく波を打っていた。

 

「貴様何者だ…!?」

 

険しい表情でハリーが言い放った先にファフはいない。そこで彼女は異変に気付く。
一同視線がボクではなく、隣。

 

「貴方が吸血鬼ですね?ファフちゃんは何処へ」
「吸血鬼?こいつがっ?でも僕にはファフちゃんが変身したように見えたんだけど…」

 

一同が警戒する中唯一事前にファフから吸血鬼がいると話を聞いていたカムチャッカが一歩前に出て問いかけ、アルトレーデは余計に目を丸くした。カムチャッカをはじめぷちりょーしゅか全員が今、ファフの姿をすり抜け視えていなかった一人の少年へと注目している。
ハリー側からは突然ファフの姿がぼやけ焦点が戻った頃には夜色のコートを揺らめかせる彼が現れた様に見えたのだろう。だがファフはその場から一歩も動いていなければ彼もずっと背後にいたのだ。

 

これが「代わる」。
ファフは彼の言葉の意味を理解した。
彼は記憶が曖昧な状態にも関わらず一つの可能性として魔力を使用し、成功してみせた。その直感と器用さ、そしてハリーとは全く別物の隙が無いカリスマ性は恐ろしいものだ。

 

『あ……あの、』

 

ファフは試しに少年の隣へと並び声を出してみるが皆彼女の姿を捉える事はなく、聞こえている様子も無い。完全に入れ替わっている事を確認した彼はゆっくりと口を開いた。

 

「…フン、やってみるものだな。これで話せる」
「おい貴様、ファフを何処へやった!」
「うるせえ。ギャーギャー喚くな鬱陶しい」
「な…なん…何だその口の聞き方は…!?」
「あちゃー相性最悪だわ」

 

ルビー色の瞳がギロリとハリー達を睨み付ける。口を開けばその美貌と身なりとはかけ離れた態度にハリーは一瞬絶句した。最古の吸血鬼の次世代と恐れられ何百年と歳を重ねている割には容姿や言葉遣いは想像以上に若く、とてもじゃないが貴族の立ち振る舞いではない。怒鳴るハリーの様子にアルトレーデは色んな意味で呆れ頭を抱える。

 

「安心しな。てめえらには視えねえだろうが女は俺と入れ代わってるだけだ」

 

張り詰めた空気の中一つの声が上がる。足を組みしばらく彼の外見や言動を視察していたエコーだ。

 

「驚いたな。格好や性格は確かに別人だが容姿はファフとそっくりじゃないか?」
「言われてみれば確かに…」
「名は?吸血鬼」

 

「…シャフ」

 

はじめて口にした彼の名。
都市伝説級の吸血鬼シャフはエコーが発言した通り瞳も髪の色もそっくりであり、名まで似ていた。まるでもう一人のファフを見ているよう。
これには流石のファフも驚きを隠せず偽名を疑うほどである。

 

「シャフ。ファフと入れ代わったというのはどういう事だ?」
「俺には肉体が無い。今は女の体を乗っ取って話してる」
「肉体消滅…?二重人格とは訳が違うようだが」
「それは俺にも分からない。記憶が無えからな」

 

小さく首を横に振りあっさりと自らの情報を話すシャフにエコーが興味を持った様子で考える素振りを見せ、ハリー達は唖然とする。

 

「記憶が無いだと…ふざけるのも大概にしろよ」

 

ピリ、とした空気の中怒りの声が上がる。しかしそのハリーの言葉にシャフは黙って目を伏せるだけだった。言い返せる証拠が無い為だろう。
険悪な雰囲気に内心ファフは不安で心臓が押し潰されそうな思いでいた。確かにエコー達から見てシャフは得体の知れない存在であり、命乞いするには分が悪すぎる。だがこの男はぷちりょーしゅかの威圧にも決して屈する事は無く、強い眼差しで交渉を求めている。彼は恐れを知らないのだろうか。

 

「…記憶はどこまでありますか?」
「なっカムチャッカ、お前信じるのか…!?」
「正直半信半疑ですがファフちゃんの身の安全が優先です」

 

お答え頂けますね?
ハリーの代わりにカムチャッカが夜空色の瞳を細めながら静かに問いかければ、シャフは了承の意を込め話を続ける。

 

「名前はかろうじて。後はぼやける。俺が吸血鬼だという話は女から聞いた」
「貴方の目的は?」
「交渉」
「…ファフちゃんや僕等に危害を加えない保証は?」
「俺は女の体から離れられない状態だぜ?態々動かせる体を殺すと思うか」

 

だが、とポツリと口にした言葉は

 

 

「このまま引き剥がすって話なら道連れにする」

 

 

あまりにも無慈悲な内容だった。

 

「貴様、」
「貴方の交渉、お受けします。条件をお聞かせ願えますか」
「カム…!」
「ま、そうなるな」

 

なんの迷いもない回答にファフは酷く怯え一歩彼から離れる。ルビー色の瞳の中に映る彼の意志は一同がゾッと鳥肌が立つほど静かで美しく、そして残酷なものだ。しかもカムチャッカの問いに対しては必要最低限の答えを導き出し、反抗出来ないよう上手く誘導されている。カムチャッカにはそれが分かるのか言葉を慎重に選んでいる様子だった。
殺意を露にしたシャフに対しハリーがテーブルに掛けてあった腰の高さ程ある巨大な斧を取ろうとするがカムチャッカが前に出て片手を広げ静止させ、戦う意志は無い事を表明する。
ファフの生存を直接確認出来ず、なにより体を乗っ取られている今下手に攻撃すれば安全の保障どころか何を仕掛けてくるか分からない。
詳細不明な最古の吸血鬼を引き継いでいる可能性ももちろんカムチャッカは頭に入れていた。エコーもカムチャッカの判断に賛成なのか特に先手を打つ事はせず代わりに質問の攻防が始まる。

 

「話が早くて助かる。条件は俺の記憶、肉体を取り戻す為の協力をする事。無論成立ならてめえらにも危害を加えるつもりはない」
「随分と舐められたものだな。肉体を傷付けず引き剥がされる事だってありえなくない話だが?」
「武装集団の肩書きが慎重なのは俺自身厄介な分類か、てめえらの能力じゃ解決出来ない可能性が高い。条件を呑むのが先か強力な呪術師を探すのが先か…分かりきった話だろ?」
「…ははあ。なるほどね…こいつは確かに…」

 

感が鋭い。
エコーはほんの僅かにシャフに対し関心を見せる。カムチャッカ達も彼が淡々と話す条件の内容よりも先に感じた人外ならではの異質な雰囲気に気が抜けない様子だった。

 

ファフが死ねば吸血鬼も死ぬ。
この男。とてもじゃないが自ら命を断てるはずがないと冗談を言える相手ではないと、戦場を共にしてきた彼らは察する。

 

(こいつにはその覚悟があるって事か?)

 

記憶喪失だろうと吸血鬼にとって少女一人を殺めることなど造作もないのだろう。ギラギラと鋭い目が彼らを射抜き、恐ろしくも美しい姿は強制的に注目させる傲慢さを持ち合わせ、並ならぬ意志を感じさせる。
それこそ都市伝説は仮説でしかなく少なくともぷちりょーしゅかの中で最古の吸血鬼の潜在能力を知る者は居らず。
今、ファフの目の前で決して逃れる事は出来ない新たな物語が始まろうとしていた。

 


「さあ、答えろ。条件を呑むか女を見殺しにするか」

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