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 01 

「ファフ、お前は良い子だね」

そう言い聞かせるようにして老婆は口ずさみ、幼き少女の手を引く。
どれくらい歩いただろう。ぞろぞろと蟻の様に並ぶ村人達の背中を見上げながら少女ファフは思った。

 

森。

 

それは何処までも広く深く続く緑。無数に伸びた木の枝はまるでこちらを今にも掴みかかりそうな手のよう。暗い夜道が続き、寒い風に背中を押され、辺りの空気は重い。まるで森自身が「息を潜めている」かのように。

 

「…あの、おばあさん」
「…」
「どこにいくの」
「お前は良い子だね」

 

手を引かれる間何度も聞いたその言葉には一体何が含まれているのだろうか。元々幼少期から村人達と中々馴染めないでいたファフには老婆の言葉も相変わらず理解が出来なかった。

 

ざくざくと進む足音がふと止まる。背の高い成人達の背中から顔を覗くと、少し先に複数の巨大樹が見えた。
木々に囲まれた場所まで来ると老婆は繋いでいた手を離し、此処で待機するよう言い残した後背を向ける。一度も振り返らず、一言も喋らず、村人達はまたぞろぞろと足をそろえ歩き始める。徐々に小さくなっていく影を追いかける勇気も無く少女はただ一人眺めていた。
もう戻って来ない。そんな気が、した。

 

村人達の気配が無くなった頃静まり返った空気がファフを覗き込む。夜空を遮る長い長い木々達にぞっと鳥肌が立ち、思わずその場でしゃがみ込み体を小さく縮めながらワンピースを手でぎゅっと握りしめる。
何処を見ても森、森、森。

 

「ここは、どこなの」

 

返事は無い。
いつだって村人達の視線は夜風のように冷たかった。

 

「ボクは…此処で待たなきゃ、いけないの…?」

 

家族の事も話す者はいなかった。
いつだって感じるのは視線。視線。視線。

 

「どうして…?ボクは何の為に此処に残された、の」

 

いつだってボクは。

 

「ボクは…」


 

 

「捨てられたな お前」


 

ざあ。
それは微かな声だが辺りの静まりに影響しファフにはとても大きく耳に響いた。
びくりと身体に緊張が走り硬直する。背後から聞こえたその声以降周りは動きの無い視線からゴロリと重苦しい気配へ変化した。自分の深く息を呑む音と心臓の音が耳に焼き付き離れない。
だれ?
その言葉よりも先に竦んだ足を動かし恐る恐る振り返る。しかし声の主は見当たらない。

 

「……捨てられた?」
「そう。捨てられた」
「ボクは…一人?」
「そう。一人」

 

まるで異空間の森と会話しているかのような状況にファフは冷や汗を流す。

 

「あなたは…?」
「俺を知って何になる」
「あなたは、どうして此処にいるの…?」
「……」

 

ぽつりとファフは問いかけると声は一瞬闇に溶けていき、

 

「俺も一人だから此処にいる」

 

やがて静かにそう答えた。
ファフはその無感情でいて僅かに寂しげな声に惹かれる。
同じだ。ボクと同じ。孤独を知っている声。
ファフは得体の知れない存在に恐怖していた感情がいつの間にか消えている事に気付く。少女は村人達の言われた言葉を忘れ、声の主の元へ向かおうとその場から離れる。恐ろしかった木々の視線を潜り抜け声が聞こえる方へ草むらの上を歩き問い続ける。

 

「あなたも一人ならボクと…同じ…ね」
「同じ?」
「だって…ボクとあなた、似ているもの」
「……」
「あなたも、皆に連れて来られたの?」
「……」
「ねえ…どこにいるの、」

 

心細いファフは震えた声でありながら必死に声の主を探し、辺りを見渡す。
すると森の奥底からキイと鳴き声が聞こえ無数の蝙蝠がファフの目の前を通り抜ける。

 

「っきゃ…!」

 

バサバサと飛び去って行く蝙蝠達に思わず顔を両手で覆い目を瞑る。羽音が聞こえなくなったところで再び森へ視線を向けると、そこにはファフと同い年に見える若い少年が静かに立っていた。

 

「そうだな。俺達は似ているのかもしれない」


月光の輝きを浴びながらゆらりと姿を現した少年はじっとルビー色の瞳でこちらを見つめている。
透き通った声。雪の様な肌。その肌が溶けて消えない様に覆われたコートは夜と一体化していて、冷たい風と共にセミロングの赤紫髪がふわりと揺らぐ。
声の主はファフと同じ孤独を知っている声であり、驚いた事に容姿さえも似ていた。赤い瞳も、髪の色も酷似している。
とても美しく同時に恐怖さえ感じる光景。言葉を失い見つめ返すファフの様子に少年は僅かに瞳を細めた。

 

ぐらり。

 

次の瞬間トンとまるで誰かに背中を押されたかのような振動を受け、ファフはゆっくりと意識が遠退いていく。
最後に見えたのは自身の体が傾き少年に支えられた時

 

「…嘘だ。俺はそんなに、綺麗じゃない」

 

悲しそうな、表情で

 

 

 

 

 

 

 

 

+ + + + + 

 

 

「ああ、今年も人が減ってしまった」
「仕方がないさ。生贄を捧げなければあたし達が喰われてしまう」
「村の為だ」
「村の為なんだ。許しておくれ」


「ファフ、お前は良い子だね」
 

 

次に意識を取り戻した頃には質の良いダブルベッドで眠っていた。
一人で使用するには広過ぎるこの部屋に覚えは無く、見た事の無い高価な品物が揃っている。ファフは状況を把握出来ず戸惑いながらも体を起こし、古びたお屋敷の中で記憶を辿る。
そうしてファフは村で噂が絶えなかった吸血鬼の話を思い出した。

 

『ルニーシャ森の奥底に存在する古びたお屋敷には吸血鬼が住み着いている』

 

その噂は時が経つにつれ外の世界へと瞬く間に広がり、多くの賞金稼ぎの者達が訪れ住処を荒らした。激怒した吸血鬼は人間を襲い虐殺を繰り返す挙句生き血を求めるようになったのだという。
ファフが住んでいた村はルニーシャ森から近い場所にあり、当然目を付けられやすかった。そこで村人達は自ら屋敷へと足を運び、事前に吸血鬼の怒りを静めて貰おうとあろうことか生贄の提案をしたのだ。

 

「吸血、鬼」

 

森の中で出会った彼は耳が尖りなにより人間と呼ぶには次元が違う威厳を感じていた。そこまで記憶を辿り終えたところでファフは化け物と呼ばれる彼の名称を呟き理解する。
ああそうか。今日、この満月の夜自分は生贄に選ばれたのか。
悲しそうな瞳をしていた吸血鬼の姿が頭を過る。何故彼は生贄のファフを見てあのような表情をしていたのだろう。
あの場で殺されてもおかしくなかったはずの自分が生きている。気を失っていた間にも襲われた形跡は無く、むしろ体を気遣うかのように部屋まで連れて来ていた。
そんな彼は本当に噂のあった吸血鬼なのだろうか?村の住人達から見捨てられた時点で生きる事を諦めかけたファフの瞳に小さな光が灯される。

 

「!」

 

背後からバタンと荒い音が部屋に響きファフの肩が揺れる。一回り大きな扉を開いたのはあの少年、吸血鬼だった。
まるで生きているかの様にゆらりと夜色のコートが舞う。ファフは困惑を浮かべた表情でしばらく彼と見つめ合う形となる。
繊細な様子と貧相な身なりが目立つファフと貴族を連想させる彼の容姿や立ち振る舞いに天と地の差があるのは一目瞭然だった。本来ならば身分の違う相手へ容易に声を掛ける事は躊躇うものだがファフは気絶する前に交わしたやり取りが忘れられず、思わず期待を込めて言葉を口にする。

 

「あの…ありがとう、ボクを助けてくれて―――」
「気安く喋るな」

 

冷たい一言で現実へと引きずり降ろされ、僅かな希望が打ち砕かれる。
言葉を失ったまま呆然と見つめ返すファフへ吸血鬼は皮肉な笑みを浮かべながら続けた。

 

「っ、え……ぁ…、」
「助けた?笑わせんなよ、てめえは生贄だろうが」
「で、も…ボクたち、似てるって……っ、……、」
「…親しくなれるとでも思ったのか?馬鹿な奴」
「―――、」

 

ハッ、と笑っていた表情は一瞬で消え失せファフを睨む。
その顔は、ファフ達人間を憎む顔だった。人間を襲い虐殺を繰り返す非道な噂は本当だったのだとファフは心の中で確信を持ち、再び光を失った瞳を床へと向ける。

 

「生贄に選ばれた気分はどうだ、人間。哀れなてめえに一度だけ願いを叶えてやる」
「……願い?」
「そうだ。その貧相な格好を変える事も、俺や村人を殺す為の武器を手に入れる事も叶えてやれる」

 

だが最後は生贄として死ぬ。
恐ろしく美しい声で唄うように話す彼の話をファフは俯いたままぼんやりと考えていた。
生贄として選ばれた人間が、いずれ命を落とす少女が願う事とは一体何なのだろう。ファフは気を失う前に見えたあの寂しそうな瞳の吸血鬼を思い返し、目の前に立っている彼との温度差にくしゃりと表情を崩した。

 

「…ない」
「なに?」
「願いなんて、ない」

 

再び顔を上げたファフのか細くもはっきりとした拒否の言葉に吸血鬼は眉をひそめる。ファフの瞳には恐怖と虚しさで溢れ、涙を流していた。

 

「人間が無欲な訳あるかよ。願いを言え」
「……」

 

ふるふると首を横に振り断り続けるファフの様子に彼は僅かに苛立ち、その場からファフの元へと歩み寄り始めた。
こつり。

 

「恐れがあるのなら俺を願いで殺せば良い。てめえのいう友とやらのままごとにも付き合える」
「……」

 

こつり。
ファフは動けない。
まるでカウントダウンのごとくわざと聞かせているような靴の音が一歩一歩と、ゆっくりと近付いて来る。

 

「このまま本当に何も願わず死ぬつもりか?クソみてえな人生だな、お前」

 

こつり。
彼が、吸血鬼と恐れられた「化け物」が近付いて来る。
幼き人間でも分かる殺気にぶわりと冷や汗がでる。

 

「……」

 

こつり。
恐れなら彼から見ても手に取るように分かるのだろう。それでもファフは願いを口にしようとしなかった。瞳を閉じれば涙が床下へと落ちていく。
僅かな希望を感じたのはあの森で出会った彼であり、今目の前で死の宣告をしようとしている彼ではないからだ。自分と似た孤独を持つ彼と出会えたからだ。

 

「……お前は、『死にたくない』とは願わないのか」
「――――、え…」

 

少しの間にふと呟かれた彼の言葉に、ファフは頑な思考を止め瞼を開く。視界の先にはあの独特な雰囲気を持つ彼が静かにこちらを見つめていた。
まるで誘導させるかのような問い。ファフはここで彼の言動を再び振り返る。

 

彼は何故か生贄へ生きる希望をわざわざ与えようとしている。
それは不思議と皮肉を感じるものではなく、ファフが意思表示するのを待っている。
死にたくない気持ちはもちろんある。しかし生贄を求めた彼から発せられるとは考えていなかった。
おかしい。非道な化け物と人間に恐れられた彼がそんな言葉を口にするだろうか。

 

「…チッ」
「!や、」

 

静まり返った空間に彼は舌打ちしながらしびれを切らせ、細いファフの腕を掴み強引に扉の外へと向かい始める。
あまり歳の離れていない彼の容姿からは考えられない強い力で引っ張られたファフは恐怖し思わず足元に力を入れ抵抗する。だがか弱き少女の力では引き止める事は叶わなかった。

 

連れていかれる。どこに?殺される?
ボクが何も答えなかったから?
いや、先程吸血鬼が言っていた通り願いを言ったところで最後には殺される。
ボクはその願いを求めなかっただけ。振出しに戻っただけ。ボクの否定は受容された。
それだけ。
それだけなのだ。
それだけなのに。

 

「――――っ」

 

彼の背中を見ながら抑えていた感情が噴き出す。
覚悟を決めていたのに、一瞬彼が見せた問いに、表情に、美しい瞳に、完全に吞まれてしまった。
ぞわりぞわりと悪寒が全身を駆け巡る。掴まれた腕が悲鳴を上げる。
失う?
死ぬ?


 

怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い。
しにたくない。
しにたくない。

 

目を逸らす事も出来ず、瞬きをする事も許されず、異変に気付いた彼が顔を近付けても動けず、表情が見えず、首元に吐息が掛かる姿が脳内で再生され――――

 


「――――――いや…!!」


目の前の「死」に耐え切れずファフは思いきり彼を押し退けたその時だった。


「――――ぐ…っがァぁアアアア!」
「ひ…!?」

 

真っ赤な夕日色の炎に包まれもがく吸血鬼の姿にファフは何が起こったのか分からず唖然とする。もう片方の手でファフの肩を掴もうとした瞬間ファフが身に付けていた赤い十字架のネックレスに手が触れ、火花が散ったのだ。
美しかった彼の苦痛の声が部屋中へと響き渡る。火の粉が床へカーテンへ次々と散乱し、瞬く間に炎が広がり赤い景色へと変えていく。炎を薙ぎ払おうと腕を大きく振り回し、彼の爪痕が痛々しく壁に引きずるようにして残っていく。

 

「て、めえ、なぜ、それを…」
「……!」

 

焼ける痛みによろめきながら彼女が所持している赤い十字架を指差し見上げて来た。彼の目はギラギラと血の色をしていてファフは悲鳴を上げる。
此処にいては殺される。頑な意思は完全に崩れ去り、生きたい本能のままに彼女は吸血鬼の横を走り去り部屋を転がるようにして飛び出す。
ガタンッ

 

「!待て!―――っぐ、」

 

吸血鬼は燃えていく夜色のコートを揺らめかせ逃走するファフを追おうとするが視界が火で遮られ、思わず顔を手で押さえる。
やがてその場で膝を付きうずくまる彼を彼女は一度も振り返る事無く大きな階段を駆け下り、お屋敷の外へ、森の奥へと突き抜ける。

 

(どうして、どうして、―――!)

 

悲痛の願いを胸に抱きながら走り続ける彼女を赤く染まったお屋敷が見送る。彼が投げかけた言葉や態度を背に受け、そのまま走馬灯のように駆け巡る。
その中であの悲しそうな表情をした吸血鬼の姿が目に焼き付き離れず、また涙を流しながらファフは助けを求める。

 

一先ず生贄からは抜け出せたはずだ。助かったはずだ。
助かったはずなのに、どうしてこんなにも苦しいのだ。
どうして。
どうして涙が止まらない。
理由が見つからず泣きながら走り続ける。

 

走る。
走る。
走る。

 

ゆらりゆらりと首元で踊る赤い十字架と共に。

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