EP 5-6
「完全にしてやられたよ、センパイ」
赤紫の髪が風で揺れるのを構わず狂い咲いたエフィメラの花達を潜り抜け、トン。と真っ赤な地面へ降り立つ。
どこまでも伸びきっている無数の蔓に囲まれたこの場所に息苦しさを感じながら、守護輝士シャフは盛大に拍手をして出迎えた彼エルミルへと目を合わせた。【深遠なる闇】そのものといえるこの大地の中心部で育った拠点まで走ったシャフに最後までお供したのはシエラで、小さな身体でありながら常に演算を繰り返し彼の様子を伺っている。しかしシャフの後ろに控え黙って睨み上げる妖精にエルミルは目もくれない。
「ハリエットは、どこ?」
「君の目の前にいるじゃないか」
シャフの一言にエルミルは少年と似たルビーのように真っ赤な瞳を細め深い笑みを浮かべる。そうしてゆっくりと背後へ、まるで過去へ手を伸ばすかの様な素振りで示して見せた。シャフは流れるままに彼の腕から手、指、そして奥へと視線を移動させ、とある光景が写り息を呑む。
今まで見てきた中で最も巨大なエフィメラの花が咲き乱れている中心部。蔓がいくつも重なりほぼ一体化している状態で、耳を澄ませばドクドクと繭の鼓動が聞こえる。彼女の姿を目に捉える事は出来なかったが、そこにハリエットの面影が確かにあった。
あまりの禍々しさに言葉を失い立ち尽くすシャフと、彼女の有様を信じられず両手で口を覆うシエラ。二人の反応が可笑しくてたまらないといった様子でエルミルは飄々と語り始める。
――――【深遠なる闇】の器。
彼女ハリエットが本来背負っていた宿命。一度死した器の運命を「ハリエットとして生きていた魂」も薄々感じ取っていた事。
エルミルは話す。いついかなる歴史においても最終的には世界を滅ぼすものに収束する、と。
オメガの世界でハリエットは世界の生贄として記録された。エルミルもまたオメガの世界でのダークファルス【仮面】として記録された。それは本来の【仮面】とマトイの存在を強調するかのように現れ、エルミルはダークファルスとして【深遠なる闇】になることを求め、器との融合を目指した。全ては全知存在の記録を全て無に帰すために。
「解るかな、センパイ。あれを救い出すなんて無駄だよ」
「…そんなこと…ない」
「せいぜい出来て殺すことだろうね。それならセンパイ得意だろう?センパイがセンパイになった理由もそんな感じだったもんねえ」
本来の【仮面】が死に物狂いで繰り返してきた歴史を茶化すエルミルにシャフはき、と睨む。だが彼には通じなかったのか、わざとらしく両手を上げ肩を竦めた。
「―――ああそうだ、実質君はセンパイだけど『センパイ』じゃないんだっけ。物語の英雄でもないのに奇跡を背負わされちゃって、サ」
そうして突然低くなった声でご愁傷様?と笑うエルミルに、シャフは背筋が凍る。
世界の影の存在だったNやノイズの願いを受け取り白き世界から脱出した後日。シャフはアークス達と過ごす内とある人物の存在が少しずつ蘇り始めていた。
きっかけは恐らくNとノイズによる「復讐」が終えた事により流れ出た記憶。その内容は当時彼らが影として光の存在へ問い掛け続けていたもので、時系列は【仮面】の時間遡行の影響により点々としていた。一度引きずり込まれた白き世界は真っ赤で真っ青な異空間と化し、刃達が無数に散乱し、それでも何度も目覚めを問うNの姿が見える。
そんな存在を遠い場所で見つめ続ける一人の人間がいた。古傷を負った【仮面】を左手で持ち、悲しげに眉をひそめる長身の男。
シャフはその男の名を思い出した。
少年が惑星ウォパルで絶望の欠片としてこの世界に飛ばされる直前に出会った彼の名を。
アッシュ、
名を呼ばれた男アッシュは振り返り、泣きそうな顔でシャフを見る。
シャフを始め世界が彼を、本来の守護輝士を思い出すための目覚めを果たした瞬間だった。
「僕らはダークファルス【仮面】を受け継ぐ同士みたいなもんなんだぜ?いくらセンパイが『センパイ』自体になろうと、それは君の奇跡で形取った存在に過ぎない」
シャフがこの世界に呼ばれた真実。
【深遠なる闇】との終焉が見えず心を閉ざしたアッシュが再び目覚めるまでの間、彼の代わりに守護輝士として存在する事。
こうしてこの世界の声を聞いた絶望シャフは唄を紡いで奇跡を起こし、スウロ達を導き出した。全ては全知存在シオンが導き出したこの世界の救済演算の一つだった。
「…そう、だね。俺はこの世界のイレギュラーだから、『センパイ』や【仮面】じゃないし…なれない」
「馬鹿な世界を救済する為に誰一人気付かれずに生涯を終える、かわいそうなセンパイ」
シャフから記憶の詳細を聞いた時、スウロの表情は穏やかだった。
価値観の違いはあれど比較的魔法使いは誰かの願いを聞き入れる。魔女ラビナもその一人であり、別世界の全知存在の願いを受け取った結果となった。ダーカー因子が凝縮された【双子】の体内にラビナとロルフッテが居座り続けたのは、容易に干渉を許さない無垢な白き世界の中でアッシュの傷を癒し、目覚めさせるためではないかとスウロは話す。だが予想以上に【深遠なる闇】が拡大し、スミレやケイネがいる世界にも影響が及び、影の存在であるNやノイズが動き出した。
思えばダークファルス達は、最初からシャフ達の事情を組み取っていたのだろう。この世界が違和感を覚えない代わりに彼らが影の存在として見抜いたという事になる。
どういう事かと緊迫した表情で交互に二人を見る小さな妖精に、シャフは少し困った顔で笑ってみせ、高らかに上げるエルミルの声を聞きながら呟く。やがて未だ黒い花の繭に幽閉された彼女を真っ直ぐに見据えた。
「…でもね、エルミル。俺はここで生涯を終えるつもりは、ないよ」
真剣な声にエルミルが笑うのを止め、訝し気な表情を浮かべる。シエラは健気なその背中を黙って見つめる。
ハリエット。今、この場で名前を叫んで彼女は答えてくれるだろうか。
勇敢で、決して目を背けず、人と人は分かり合えると信じてきた彼女の姿が脳内で浮かび上がり、シャフは密かに華奢な拳を握り締めた。
どん、と鳴り響く破壊音。その音が地面を揺るがす度に、この世界の破滅はすぐそこだと思い知らされる。
「俺は確かにこの世界の英雄じゃないけれど、奇跡を背負わされただなんて思ってない。スウロ達もきっとそんな事を考えて行動してない。責務でも同情でもなく、自分の意思で此処にいる」
けれど。
絶望的な大地に立ち、遠くで彼女の救済を願い戦い続けている者達がいるのが分かる。誰かを、何かを信じ、一人ひとりが強い意志を持ち、傷付きながらもお互いを仲間として支え合い、決められた運命に抗い続けているのが分かる。
シャフはそんな者達への感謝を忘れず、彼らの導きがあったからこそ此処まで辿り着く事が出来たと証明する。
託された想いがあるからこそ、守護輝士は此処から逃げる気も、生涯を終える気も、意思を「殺す」気も無い。
「絶対に助ける」
きっとハリエットもこの光景を強い眼差しで見届けていたのだと思う。
きっとアッシュもこの光景を強い眼差しで向き合うのだと思う。
彼らはシャフの立ち位置だった場合もきっと、少年と同じことを言うのだと思う。
俺「達」は俺達としてハリエットを救済する事を諦めない。
世界の救済を諦めない。
シャフが再びエルミルへ視線を合わせた時、彼の表情が瞬時に消え失せ一時の沈黙が降りる。
お互いが黙り込む中ぱらぱらとダーカー因子が凝縮されたエフィメラの花弁が地上へ舞い散る。
今此処にいる守護輝士が口にした言葉には偽りも、迷いも、恐怖も含まれていなかった。
シャフの強き意思はエルミルに嫌でも伝わり、そして引き金となる。
ゆっくりと煽っていた両手を下げ俯き、ただでさえ仮面で見え難い表情にセミショートの横髪が掛かり、瞳のハイライトが完全に無くなる。くつくつと不気味に肩を揺らす彼。その姿は背後に映る巨大な繭と一体化したような錯覚を受け、より一層彼に影を作り出す。エルミルの感情が読み取れずシャフが今一度瞬きをしたその時顔を上げ
「馬鹿の一つ覚えみたいにどいつもこいつも助ける助ける…――――それができなかったんだろうが!!」
彼自身の仮面が剥がれた瞬間だった。怒りの言葉はびりびりとその場を恐怖させ、肌を刺す殺気が空気中に広がる。
シャフはエルミルと目を合わせた途端、あまりの込み上げる強さにぞっと鳥肌が全身を駆け巡った。守護輝士の意思と決して劣らない、まるで世界をもひれ伏させるような憎悪。逸らす事も許されない視線。触れられていないのにも関わらず首を絞められる感触が残り、その事がさらにシャフへ恐怖心を抱かせる。
「誰かを犠牲に生き残る選択をした、過去もそうだ、現在もそうだ。そして未来も必ずそうなる。現にセンパイが既に証明となっている!どの世界線だろうが結局は同じ事を繰り返す証明を…!」
これまでの経歴全て叩き伏せ逃がさないとばかりに噛み付いてきたエルミル。彼の逆鱗に触れたのはシャフにとって初めての体験であり、恐らくエルミル自身にとっても想定外だったのだろう。
普段の態度とは全くの別物で、露になった感情はどす黒い渦となり外へと爆発させている。そこから伝わってくるものは決して怒りや憎しみだけではないと分かるからこそ、シャフは胸が苦しくなる。
「滅ぶべきなんだよ、今此処でこのまま全部ゼロにしてしまえ!センパイがそうでなくとも、『センパイ』や【仮面】はそれを望んでいるんだろう?」
「…俺もあなたも、【仮面】を語る事は出来ないよ」
だが、それでも少年は諦めなかった。未知の影に恐れはあれど瞳に映る闘志は消えていなかった。突き刺さる無数の言葉の刃に負けじとシャフは首を振り、りんと訴えるように答える。
頑な意思にエルミルは何だその目はと僅かに息詰まり、がしがしと自身の髪をかきむしりながら言葉を吐き捨てた。
「黙れよセンパイ、僕は誰よりもダークファルスだ!なり損ないどころかイレギュラーの分際で僕に語るな」
数々の言葉を浴びる中、シャフはこれまでの経歴やアッシュ達の事を思い浮かべながら彼を見つめ返す。
信じる仲間も背負う想いも、全てを飲み込んだ絶対的な力という存在で固執したオメガの影。果たして彼は気付いているだろうか。強制の心で行動に移した時点で、彼は【仮面】ではない証明になっている事を。
シャフ達は誰かの成り代わりでも、身代わりでもなく、既に一人の人類としてこの大地に立ち奮闘している事を。
人類としての存在ならではの感情が、憎悪だけでは成り立たない心が貴方を奮い立たせ始めている事を。
「原初より始まり未来まで紡がれる守護輝士の記録、ここで塗り潰してやる」
もし気付いているのだとしたら。
全知存在が思い描いた未来へ一歩でも近付く為に、シャフはふわりと青色に光り輝く武器を優しく手に取った。
その飛翔剣は、捻じ伏せるものでも斬り捨てるものでもない、希望を託された剣。その剣をエルミルへ、手を差し伸べるかのように向ける。
彼は向けられた剣を自身の手で振り払うように空気を掻っ切り、奇跡を否定する素振りをして見せた。
―――――――――
【巨躯】【敗者】【若人】【双子】そして【仮面】の因子を得、相応しい器に戻った僕の力。【深遠なる闇】として、正しく世界を潰しフォトンの全てを消し去ろうじゃないか。
『おいテメェ、奴らを【双子】の腹から救出する方法を探すとかとかぬかしてなかったか?このまま元の世界に帰っちまって良いのかよ』
「ラビナとロルフッテの事を心配してくれているのですか、です?ありがとうございます、きっと大丈夫なのですよ」
『何故断言出来る?』
「ぼくらが呼ばれた意味はシオンさんの願いを叶える事でしたから。アッシュさんが目を覚まして、シオンさんがぼくらに願った事は終わりました。だからぼくらも元の世界に帰れるのです」
『だからよお、その元の世界に二人が確実に帰れる保証はあんのかって聞いてんだよ。結局この世界に飛ばされてから一度も会ってねえじゃねえか。信用出来んのか?』
「はいなのです。遠く離れていても、ぼくらの心は繋がっていますから。この世界の平和を願ったシオンさんのお言葉も信じますし、ラビナやロルフッテの帰りも信じます」
『繋がってる…ねえ。ハッ、相変わらず脳内お花畑な野郎だぜ』
「ふふ。力を貸して頂きありがとうございました、ゲッテムハルトさん。あなたの闘志の心、とても美しかったのです」
『…その能天気さ加減、テメエを見てると確かに守護輝士に似ている。世界が求めるはずだ』
―――――――――
フォトンの消滅。すなわちそれは全知存在の消滅と同じ、サ。僕は宇宙の記憶を消し飛ばす。
楽しい記憶も悲しい記憶も怒りの記憶も喜びの記憶も区別無く、全てを無に戻してやるさ。
『全く、君の思考には毎度意表を突かれる。守護輝士といい、シオンはとんだ光に願ったものだ』
「…そ、っか。俺の心の中、読んだんだね」
『僕は他のダークファルスよりも君との精神距離が近いようだからね。直接僕の能力を開花させたのだから、当然だろう?君がこれから何をしようと考えているのか、手に取るように分かる』
「怒らないの?」
『怒る?君はハリエット≪最高傑作≫の魂を救済する事を望んだ。それは僕が本来望んだ経路でもある。答えを導き出した君がこれから何をしようと僕は構わないよ』
「…ありがとう、ルーサー。この世界を熟知しているあなたに言われると何だか安心する。…同じ学者だから…かな。時々あなたがロルフッテと重なるんだ。あなたの本来望んだ光も、ロルフッテが本来願った未来も、似ているから」
『…君はハリエットだけでなくシオン≪全知存在≫の願いを叶え、見事アッシュ≪守護輝士≫を目覚めさせた。同じ学者から言わせれば、奇跡をこの目で見れた気分さ』
「なんだか…お父さんみたいだ。アッシュ達の未来のこと、よろしくね」
『やめたまえ。僕は当分誰かの世話をするつもりはないよ。守護輝士の未来も己で決めると良い』
―――――――――
世界は、宇宙はここで消し潰す。記録を消して塗り潰す。
「この世界の有様を見てると、どの世界も変わらないなって思う」
『あら、突然なに?まさか奴の言葉を真に受けたとでも言うのかしら』
「真に受けたも何もアレは元々人類の影の一部で、お前らと同じ命運だろ。どの世界線だろうが持ち合わせている影は結局どこも同じだ」
『こんな奴と一緒にしないでくれる?アタシはあんな理由で【若人】の依代になった訳じゃないわ。』
「これとかあれとか曖昧な時点で図星だろ、素直じゃないな」
『なっ、アンタにだけは言われたくないわねえ!』
「同じだからこそ影とどう向き合うか常に問われている。夢を持てば持つほど影も大きくなるから。…ほら、マルガレータ。あんたも経験済みじゃないか」
『…ふん。癪だけど言ってる事はあながち間違いじゃないわね。アタシから見ればアンタも相当な欲の塊だわ。そんな意思じゃ元の世界に帰っても苦労が絶えないだけよ』
「人間だから仕方がない…と言いたいところだが。成程確かにそれは気が引けるな。有難く受け取っておくよ」
―――――――――
なあ守護輝士サマよ、救うとかヌルい事言うなよ。
こちとらようやく出て来られたんだぜ?もっともっとひりつくような緊張感と死を背負った闘争をさ。
「……やられた」
『なにがやられたの?』『どこがやられたの?』
「あいつ、私と交わした約束忘れてるだろ。このまま成果も無く帰ったらセリア様に…いや、死神に何て言われるか」
『ああ、もしかしてスウロの事?二人を助けるって約束してたもんね』『ラビナとロルフッテをわたしの腹の中から取り出すってお話してたもんね』
「勘違いするなよ。救出すると約束したのはあくまであんたの腹の中からであって、あいつら自身を助ける事じゃない。私は罪人を裁く側だから」
『なんならまたぼくに食べられてみる?そうしたら会えるかもよ』『うん、わたしの腹の中に入ったら今度は約束守れるかもね?』
「アークスでなくなるのにあんたの中に入ったら出られなくなるだろうが。…それに」
『それに、なあに?』『だから、なあに?』
「フローやフラウがかつて願っていた平和を踏み荒らす様な野暮な真似はしない。それこそ、私達は私達の世界で正義を問うさ」
「―――エルミル、」
静かに名を呼ばれた彼は瞼を震わせ、気だるげに目を開いた。
上半身を起こし辺りを見渡せば、空気中に漂う小さな熱帯魚達が泡をぷくりと作り上げている。空はゆらゆらと海の景色が映り、僅かに波の音が聞こえる。
ふと隣を見れば、座り込んでエルミルを心配そうに見守るシャフの姿。少年がいる事により此処はシャフの精神世界なのだと彼は理解し、不機嫌そうな顔で毒を吐く。
『…君、随分と余裕じゃないか。僕と殺り合ってる間に考え事なんて、サ』
「あ…ごめんな。どうしてもあなたとお話がしたかったから」
器のハリエットやダークファルス達を取り込み真の姿エルガ・マスカレーダとなった彼と、一体どれくらいの時を戦い続けたのだろう。もしくはあっという間の時間だったのだろう。
世界を壊す奇跡と死闘を繰り広げながらも、とある事を思考していたシャフにエルミルは勘付いていた。
器諸共消滅したはずの身体の傷が癒えているのを確認し、敗北から目覚めて早々嫌味を放つ彼。最初は意図が分からず首を傾げるシャフだったが、やがて気付いた少年は素直に述べる。
あまりにも純粋な対応にエルミルは非常に居心地が悪くなり他の連中は、と話題を変える。問われたシャフは少し寂しそうな表情で微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
シャフの精神世界にいたダークファルス達は、本来の守護輝士アッシュの精神世界へ移動しつつあるのだろう。賑やかだった少年の心の中はいつもよりも静まり返っている。
シャフ同様アッシュの代わりとなっていたスウロ、スミレ、ケイネの三人の姿も見えない。シャフがそれ以上語らないのは、彼らが元の世界に帰還した証拠だとエルミルは納得する。
『で、奇跡を終えるイレギュラーが今更僕と何を話すって?』
「…あのね。シオンの願いを聞き入れた俺の唄の奇跡、あなたの言う通りもうそんなに長くは持たないと思う」
だからね、とシャフは一呼吸置いて話を続ける。
「アッシュが完全に目覚めて力を取り戻すまでの間…唄の奇跡が消えて俺が元の世界に帰るまでの間、見届けてくれないかな」
『――――は、』
エルミルは驚愕し固まる。
シャフの話によるとアッシュは無事目覚めはしたが、力を完全に取り戻している訳ではないという。世界の住民が徐々にアッシュを思い出し、彼を守護輝士として受け入れる事で能力が戻り、この世界で起きた奇跡の唄の効力は終えるのだと。
アッシュと完全に入れ替わり元の世界に帰還するまでの僅かな期間。シャフはエルミルに精神世界でこの世界の未来を見届けてほしいと、そう話した。
『君…そんな理由で態々僕の魂を呼び止めたの?ご丁寧にダーカー因子を浄化してまで』
「うん。もうこの世界にとって俺は守護輝士でなくなりつつあるから、浄化にも限度があるけど…ね。でもそんな俺だから、あなたの魂を心の中に呼ぶ事が出来たんだと思う」
『世界の怨嗟を受け続け繰り返し何度でも苦しめと僕は言ったはずなんだけど。なにも『センパイ』だけに言った台詞じゃあないんだぜ?』
エルミルの言葉にシャフはまた、あの寂しそうな微笑みをして見せた。返答するどころか責めもしないシャフの様子に、エルミルは何故か己から苛立ちを覚えている事に気付き、嫌悪する。
「あなたが光となる事を願う世界は、きっとすぐそこにある」
やがてシャフは心地良さげに宙を泳ぐ熱帯魚を撫でながら肩の力を抜き、海を見上げ呟く。
「Nが…世界の影がアッシュに言っていた言葉。何度悲しい出来事や、絶望の淵に立たされても、俺も…その言葉を信じたい。影が完全に消える事がないのと同じように、光も完全に消えないから。確かに此処に、残っているから」
その光がいつかの未来に繋がるから。
世界は、人はそうやって生きてゆくのだから。
影を受け入れる光。それが本当の奇跡の姿だよ。
「――――♪、―――――」
シャフは唄う。
透き通った風鈴のような歌声は涼しげに、安らかに、海の泡へと吸い込まれていく。それがどんなに小さなことでも、瞳を閉じ祈りを届けるシャフの姿にエルミルはいつもの調子で横槍を入れる気にはなれず、同じように明るい海を見て眩しさに目を細める。
彼は衣服や己の能力が浄化され青くなっていくのを感じながらぼんやりと言葉を口にした。
『…ま、そこまで言うのなら見届けてやろうじゃないか。どうせ君も僕も、此処に残れる期間は限られている。その間くらい奇跡を歌ったところで罰は当たらないはず、サ』
「よかった…ありがとう、エルミル」
『…君って本当に騙されやすい性格してるよねえ。元の世界で君の不注意に冷や冷やしてる奴とかいるんじゃない?』
「そう、なの?言われた事無いけれど…帰ったら船長に聞いてみようかな」
『………』
呆れながらも先程よりも比較的棘が少なめのエルミルの言葉に、シャフは嬉しそうに笑って唄を紡ぎ続けた。
誰かの光を祈りながら。
誰かの影を受け入れながら。
世界の未来を、願いながら。